島田療育園(現・島田療育センター)を創立した初代園長
小林提樹(こばやしていじゅ)先生は、障害児(者)とその家族を守るためにあらゆる努力を重ねられ、医療、家庭での介護指導、福祉制度の向上に精魂をこめてその生涯を貫かれました。
先生は「両親の集い」を通して重症児の親を導き励まされ、播かれた種は大きく育って、「全国重症心身障害児(者)を守る会」に発展しました。
また、障害児のいのちと生活をより充実させるため、多くの著述をされ、学会を作り、重症児医学の基礎を作られました。
先生によって初めて重症児の上に光がさしました。
私たちは、先生を「重症児の父」と呼び、心から敬愛しています。
このレリーフは、先生のご功績をたたえ、障害児に向けられた暖かいお気持ちを後世に伝えるために制作したものであります。レリーフは当センターに寄贈され、正面玄関ロビーの壁に掛けられており、いつでもご覧いただけます。
座右の銘
この子は私である。
あの子も私である。
どんなに障害が重くとも
みんなその福祉を守ってあげなければと
深く心に誓う。
小林提樹初代園長の足跡
1908年 (明治41年) | 3月23日、長野市に生まれる。 |
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1921年 (大正10年) | 旧制長野中学に入学。 |
1927年 (昭和2年) | 慶応義塾大学医学部に入学。 肋膜炎で一年休学。キリスト教の洗礼を受ける。 |
1935年 (昭和10年) | 同大学を卒業。小児科教室に入る。 |
1938年 (昭和13年) | 同大学医学部で小児精神衛生相談主任となり、以後心身障害児の治療相談に傾倒。 美津江さんと結婚。 |
1940年 (昭和15年) | 長男、化膿性髄膜炎にて生後36日で逝去。 「私の心身障害児への道はこの時に決まった。」 |
1941年 (昭和16年) | 召集。軍医予備員として中国東北部、沖縄を経て、台湾で敗戦。 1946年帰還。 |
1946年 (昭和21年) | 日本赤十字社本部産院小児科医長(後、部長)となり、捨て子を受け入れ食料買出しのため闇市にも出かけた。 |
1948年 (昭和23年) | 慶応病院と日赤産院で週2回ずつ障害児の診療相談を再開する。 日赤乳児院創設とともに乳児院長を兼務、常時20~25人の障害児が入院していた。 医学博士号を授与される。 |
1955年 (昭和30年) | 7月9日、障害児の両親・家族を対象とした月例の相談会「日赤両親の集い」を開始した。この集いから「全国重症心身障害児(者)を守る会」が生まれた(1964年)。 |
1956年 (昭和31年) | 1月、障害児の家族のための療育指導誌、月刊『両親の集い』を創刊。97号までほとんど一人で執筆編集した。以後、重症児を守る会の機関誌として引き継がれ今日にいたる。 |
1957年 (昭和32年) | 重症児施設建設用地として東京都南多摩郡多摩村(現在地)を選定、島田伊三郎氏が土地293,832平方メートルを買収した。 全国乳児院研究協議会、全国社会福祉大会等で「児童福祉法の外に置かれた障害児の存在」を訴える。 「重症欠陥児の対策懇談会」を開催し国や都の担当者と話し合う。 |
1958年 (昭和33年) | 東京都社会福祉協議会が中心となり重症心身障害児問題委員会が生まれ、社会的にとりあげられるようになった。 日本心身障害児協会を設立。 北里賞を授与される。 |
1959年 (昭和34年) | 島田氏から協会に土地寄贈される。 |
1960年 (昭和35年) | 平井信義氏と小児精神神経学研究会(現日本小児精神神経学会)を創設し、機関誌『小児の精神と神経』(季刊)を主宰。 神田に日本最初の重症心身障害児の外来診療所として協会付属診療所を開設、所長となる。 島田療育園初代園長に就任。 |
1961年 (昭和36年) | 重症心身障害児療育研究委託費の名目で島田療育園に国庫補助4百万円が初めて予算化される。 5月1日、重症心身障害児施設「島田療育園」(現島田療育センター)が開園。 |
1962年 (昭和37年) | 島田に重症心身障害児療育研究委託費6百万円補助される。 サリドマイド児2年で7名入園。 |
1963年 (昭和38年) | 秋山ちえ子、森繁久弥、伴淳三郎氏らにより「あゆみの箱」募金運動はじまる。 水上勉氏「拝啓池田総理大臣殿」を発表、重症児問題、島田療育園の存在が社会的に知られる。 施設入所療育費公費負担となる。 日本医師会最高優功章を授与される。 |
1964年 (昭和39年) | 全国重症心身障害児(者)を守る会」発足、顧問に就任。 |
1965年 (昭和40年) | 秋田さきがけ新報のキャンペーンを契機に「秋田おばこの集団就職」始まる。この年16名。全国に報道され、おばこ天使が『明るい社会賞』を受賞。 |
1970年 (昭和45年) | 三越厚生事業団の三越診療所で障害児の無料診療を開始。(1990年まで) ヘンシェル宣教師とともに「つばめ会」を設立、園長となる。障害児通園事業の草分け。 朝日賞を授与される。 |
1971年 (昭和46年) | 保健文化賞を授与される。 |
1974年 (昭和49年) | 4月、島田療育園園長を辞す。名誉園長となる。 |
1975年 (昭和50年) | 重症心身障害研究会(現日本重症心身障害学会)を創設、会長として学術集会と『重症心身障害研究会誌』の発行に努めた。 重症児を守る会の重症心身障害児療育相談センター三宿診療所所長に就任。 |
1977年 (昭和52年) | 大妻女子大学教授となり、児童福祉学担当。 医学研究振興財団賞を授与される。 |
1979年 (昭和54年) | 秋、勲四等を授与される。 相愛病院名誉院長に就任。 |
1990年 (平成2年) | 小児保健賞を授与される。 |
1993年 (平成5年) | 3月7日、脳梗塞により逝去。84歳。 |
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