遊びとは何だろう。
こう問うこと自体遊びの自律性、他愛のなさに反するものかもしれない。人は遊ぶことを誰に教えられるまでもなくいつの間にか身に付ける。遊びの初めはとりもなおさず体を動かすことが基本である。人はその行為・行動をできる限り自動化すべく脳を駆使しているといってもよい。学習の連鎖で乳幼児の遊びが高度化し、遊ぶことの意味が変わって行く。1人の遊びが2人の遊びに、また3人以上の遊びが出現する頃にはヒトとしての了解と関係づけの基礎もできあがる。言葉も遊びも身体でおぼえるのである。
身体を動かすこととしてスポーツを例にとってみよう。草野球からプロ野球まで遊びの本質は貫かれている。肉体を動かすことによる精神の解放である。
自動化しきれない数ミリの違いが勝負を決したり、偶然が必然に転化したりすることの中にスポーツの醍醐味がある。
ずっと野球をみてきたが、日本のプロ野球にはそのキャラクターが対照的な選手が何人かいて勝手に分析している。王と長島。イチローと清原。野球道とベースボール。内向と解放。これらのキーワードで日本的なスポーツの楽しみ方(遊び方)が浮き上がってくる。イチローは野球が楽しかったのか? 楽しかったに違いない。未踏の領域を突き進む者にしかわからない苦痛と歓喜が不可分な境地があるのかも知れない。
イチローが日米通算でピート・ローズの安打記録を抜いたとき日本中が騒いでいた。イチローは冷静で、これに目標を置いたことはないので大したことはないが、皆が喜んでくれたのは嬉しかったと言っていた。天才といえばそれまでだが、イチローの日々のハードワーク、こなすルーチンの妥協のなさは忘れてはならない。驚嘆するしかないが、背負ってしまったものを相対化する眼ももっている。ヒトとして尊敬できる人は野球界には少ないとも言っていた。人格者としても振る舞うことを自分に課しているのだろうか。あまりそういうことで苦しんでもしょうがないのだが、非常に自分で作った足枷が多いヒトだという気もする。あの足枷のような倫理性。若者はその足枷を如何になきものにするかに腐心する。過剰な自己抑制は倫理の仮面をかぶって他人の思想と行動を制御しかねない危うさがある。これは若いということの属性でもあるが。それを持続したのがイチローなのかもしれない。この偉業を前に皆「勇気をもらった」などとする。本当に驚くべきところは他にある。おそらくイチローにとっては勇気などではなく、あくまで自己抑制からくるルーチンなのだ。それは強さでもある。
王は通算868本のホームランを打ったが、草野球でポテンヒットを打って勝利した者以上の喜びがあったのだろうか。あったかも知れない。偶然で3割は打てない。先覚者や天才には凡人にはうかがい知れない境地があるかもしれない。あるであろう。しかし2人とも野球を野球道にしてしまった。
この2人に比べると長島や清原(西武時代の)が演じていたのは精神を肉体から解き放っているかのように「見る者」に思わせる精神の遊びを持ったパフォーマーである。勝負やルールの向こう側に超一流の選手たちは遊びの種をいくらでも垣間見させてくれる。
相撲も同じと言いたいが、そもそも相撲はスポーツではない。アジア的心性に強固に支えられた歌舞伎と同じ様式美にその本質はある。それに対して八百長だ何だと言ってもしかたがないことである。相撲を楽しむのはその様式美を堪能することにある。
八百長だという批判があたらないのはプロレスも同じ。これもわざとらしい遺恨とあまり救いのない肉体主義が演じてみせるつかの間の精神の解放を味わえばよい。「Waaaahブッチャーが本気で殴ってます。」と実況に言わせたブッチャーなど現在の「本気さ」を勘違いしたK1などの総合格闘技よりも凄みがあったと言える。(もうブッチャーを知っている人は少ないだろう)
遊んでいるつもりがいつの間にか「本気」になったり「真面目」になったりすることは「退化」の予兆と考えたい。自戒を込めて。