ヒトとAI 倫理に関する雑感

 ヒトは精密機械である部分は徹底して精密機械として動く。AIはそこまではヒトに近付くだろうが、悩んだり、無駄な行為をなしたりということはしない。プログラムされていれば悩んだかのように振る舞うことができるだけである。ChatGPTも自信満々の答えの間違いを指摘すると「すみませんでした」と謝罪してくる。これもプログラムされているからである。これだけ有能な事務処理能力を有するChatGPTを使わない手はないが、ヒトが「考えて何かを生み出す無駄の多い」過程は代替できないだろう。結果ではなく過程として。

 正しくも間違いでもない、善でも悪でもない、また善でも悪でもある非決定の構造(図)を持つのがヒトの特性である。二項対立図式で考えるのはたやすい。立場の数だけ正義があるに過ぎないのに世界を二色に分けて安心したいのだ。

 最後に依って立てるのは「存在倫理」のみである。「いまここにいる」ことは誰も否定できない。その非決定の構造に意味があるかどうかはあと付け(annotation)である。システムとしてのredundancy(いい加減さ)を非決定の構造として持つのがヒトの特質ともいえる。あらゆる意味で「いい加減」を本質とする。

 臨床医学もヒトの精密機械としての修繕を如何に正確に行うかに腐心してきた。ヒトが精密機械としての部分を持つからである。AIの台頭でヒトの職業が奪われるなどという言説は、人間的なるものからの解放をどこかでヒトが希求し、機械になるという願望が頭をもたげているのである。ヒトのヒトたる所以は機械になりきれないということにある。

 昨年の朝日新聞に動物愛護のある考えが主張されていた。

いるかショーはいるかの自然な生き方とは異なるのでやめましょう。

いるかが可哀想という発想から一歩も出ていない小学生並みの(小学生には申し訳ないがこれは比喩)物言いだ。

こういう困った考えは一定の賛同を受けるのだろう。

ただこういう困った考えの持ち主と小学生が異なるのは、小学生も可哀想と思うかもしれないが、それ以上にいるかの芸に目を輝かせるのだ。

子ども達を連れた夏のあるキャンプ場で鶏をさばくところを見せて料理を作ったという報告をみたことがある。

その時、子ども達は「可哀想」から「美味しそう」に変わる時点があるという

ここで子ども達は何かを得ているのだ。

そこに生成される物語を無視して「可哀想」の一点で語ってしまう異様さは、現在の錯綜としてとらえにくい状況に、倫理を密輸入して済ませる退行を象徴したものとしてとらえるべきだ。

ほんとうは善悪では表せない状況に倫理を密輸入して自身を外在化してしまいがちになることを問題にすべきだ。

長年連れ添ったペットの死の方が、赤の他人の死より切実なのはペットとの物語の方が濃いからでそれ以上の理由はない。

関係の濃厚さ、距離の問題に過ぎない。

ここではペットの死は他人の死よりも重いのである。

倫理(つまり善悪)の介在する余地はない。

家庭で動物を飼うことが自然に反しているというときの「自然」なるものも誤解されやすい。

この自然とは無垢の自然ではなく、ヒトの手が加わった自然も含めた自然なのだ。

人工的自然といってもよい。

こういう実相を加味しない考えは今後も出ては消えするだろう。

究極のエコロジーなど人類の全滅以外にないのかもしれないが、そうならない道を模索することと倫理を密輸入した動物思いの物言いは似て非なるものである。