ネットで鴻上尚史のツイートに関する興味深い文章を読む機会があった
相変わらず歯切れが良い。
この人の述べる常識は深く、また当たり前で信頼できる。
僕は作家なので想像力はそれなりにあると思っていたのだが、子供を持って初めて『虐待によって殺された子供のニュース』がつらすぎて、なるべくなら見たり聞いたりしたくないという気持ちになる。子供を持つまでこんな気持ちになるなんて夢にも思わなかった。自分の想像力なんて大したことないと思った
@KOKAMIShoji
それに対して
「私には子供がいませんが、つらいです」とか「虐待から目を背けないで下さい!」とか「子供を持たないと分からないと言いたいのですか!」とか「子供を持ちたくても持てない人を傷つけていることが分からないのか」とか、まあ、香ばしいのがたくさんきました。
@KOKAMIShoji
僕が書いたツイートは、想像力について語ったものです(とまあ、あらためて書くのもナンなんですが)。
・・・「当事者にならないと分からないことってあるんだなあ。悔しいけれど、どんなに想像力を働かせても、当事者の思いに届かないことってあるんだなあ」と感じたのです。 「当事者の苦しみは、自分の想像力の結果より、はるかに深い」
この発見によって、僕は謙虚になる自分を発見したのです。 「どんなに想像力を働かせても分からないことがあるんだ。当事者の気持ちに届かないんだ」 そう思えれば、「きっと、私が想像する以上につらいんだろうな。私が単純に想像するレベルじゃないんだろうな」と思えるのです。
そうなんだ。当事者の苦しみなど簡単にわかるはずがないし、わかったような顔はしたくない。家族や個人の具体的な生活上の苦しみが、他人にわかるはずがない。わかるヒトとわからないヒトの分断を生むだけだ。そういう問題にしない方がよい。
わかってもわからなくても行なうのが我々の仕事だ!!
わかってもわからなくても想像しようという行為だけは可能だ。
あらゆる違和感は私たちが「他者」と出会っていることの徴候でもある。
高橋源一郎が、身体障害者のみの演劇(劇団「態変」)を見た時、四肢のない女性が床に横たわって何か演技をしていた。演技というよりも転がって観客席のすぐ前までやって来た。高橋と観客達が本能的に後ろへ退いたとき、眼が合って、名状し難い感覚に襲われた。その時の衝撃を振り返り、これは何だと省察して初めて本当の意味で「他者」と出会ったということなのだと書いていた(2022、「ぼくらの戦争なんだぜ」)。
理解できない誰か、あるいは、なにかと出会ったと。
私もむかし、小人プロレスをTVで初めてみた時にみてはいけないものをみた気がした。だがすぐに技の応酬に魅入ることになった。ここでも安易な倫理を介入させると「障害を売り物にして」などという香ばしい声が出てきそうである。
重症心身障害学会でかつてファッションショーを行ったときに似たような声があったと聞く。そういう息苦しいことを言っては誰かを追いつめることになる。
私はあくまでもビジョンとしてだが、療育施設はディズニーランドになればよいと思っている。療育施設をディズニーランドにというのは壁を取り払って双(多)方向性にということだ。ディズニーランドでパレードは見るわけだが、パレードをやる側もこちらを見ている。また、こちらの見る側も、着飾って、ミッキーの帽子を被ってお互いを見ている。見る側、見られる側という固定した関係ではない。
施設の中のケアされる人(患者)、ケアする人(職員、親)という関係も大きく見るとその役割は固定したものではない。
理想的なイメージとしては、施設がもっと解放され、中にはギャラリー、ホール、多目的広場があり、幼稚園児の散歩中の声がうるさく聞こえ、利用者もニコニコしているというものになる。
ヒトは楽しいから笑うのではなく、笑うから楽しいのだ。そういう綺麗ごとにあふれた空間はまだどこにもない。